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ドイツ我楽多市
第13回 「おもちゃメッセ玩具見本市(Ⅲ)- 玩具の町とプラム小人」  文:Prof. ツヴェルク
 
 このように、ニュールンベルクは皇帝城の下で繁栄した城下町といえるが、同時に先に名を挙げた聖ゼバルドゥスが生前に奇蹟を行ったので死後、その墓が巡礼の対象となり、それに寄生した商業によって発展した都市でもあるから、門前町ともいえる。実際、この地は東西の交通の要衝(ようしょう)に位置して、14世紀から16世紀にかけて北方の低地方やスカンジナヴィヤと南のヴェネチア、ジェノヴァ、ミラノ等の北イタリヤとを仲介し、あるいは東はコンスタンチノープルから西はスペイン、更には東インドと交易を行った。そして交易品は当時は大体、市内のあちこちに開かれる見本市で捌(さば)かれるか、あるいは行商人の手に渡った後、直接販売されるか、または露天商によって売られるかしかなかったのである。

 クリスマス用の市(マルクト)はエリザベス教会(前回地図26《以下同様》)とロレンツ教会(5)の前の広場でよく開かれていたが、17世紀に入った頃(1610~39の間)、前に述べたような宗教改革の影響に起因した理由で現在の広場にまとめられた。町としてはすでに1525年に宗教改革を受け入れていたのである。ただ初期には色々な制限があって、もうまとまる以前の1600年にいかがわしい物の販売禁止とか、夜遅くまでの照明禁止とか言い渡されて、市(マルクト)としては低く見られていたらしい。これに例えばエルツ山地の玩具などが小屋を作って参加したのである。1737年にはこれまでよりも活気づいて、1400の出店があったという。だがその後苛(いじ)められることが多く、遂には19世紀の末、1898年に「瓦礫島(がれきじま)」という場末(ばすえ)とか幾つかの場所を転々としている。それが1933年にナチが政権を取った年に元の開催地に戻り、金箔天使を飾るようになった。第二次大戦中は中止したが、1948年に再開され、1950年から正式に国際玩具見本市となっている。
何故ここで開かれるようになったかは、上の地理的条件が大きいが、挿入の玩具通商経路図を御覧頂きたい。一目瞭然、ニュールンベルクは玩具販売の中心であり、同時に玩具製造の中心地でもある。こういう町は他にない。何時から玩具製造が始まったかは不明だが、ゲルマン博物館によるとかなり古い起源をもつらしい。1535年制定の職人の掟の一つに、玩具製造の許可があるそうだから 、色々と片手間に作っていたのであろう。例えば1535年に、或る錠前職人がプラネタリウムを、また或る時計職人は時計細工で動く船を作ったと伝えられている。ハンス・エーマンという職人がパズルの輪を作って大当たりしたという記録もある。他にも噴水つきのポンプ井戸、ねじを巻くと走る馬車等があるが、最も有名なのが「ミニ軍隊」で、1660年にフランスのルイ14世が皇子のために注文したのである。当地の金銀細工師が協力して出来た人形は、実際に戦争術の訓練に使われたとか。[ドイツ我楽多市4]でゲルマン博物館に展示されている17世紀の精緻なドールハウスを紹介したことがあるが、これも当時は実際に子弟の家事の教育用に使われたのだそうである。ニュールンベルクのドールハウスはその細かな作りで評判が高く、注文が多かったという。
 しかし一般にニュールンベルクの玩具として有名なのは錫(すず)人形で、その精密さが評判だった。種々の動物、クリッペ、物売り女等、後にこの町はメルクリーンとかシュコ、ヘスなどの約300位の工場を抱えて、ブリキ玩具で知られるようになるが、その素地がその頃に作られていたわけである。当時の記録に錫職人と装身具職人が同じ物を売って争った、とあるから、随分様々な職人が玩具作りに加わっていたのであろう。

 ちなみにドイツ語で人形はPuppe(プッペ)だが、ニュールンベルクやエルツ山地ではDocke(ドッケ)という。これは本来メリケン粉を固く練ったものを延ばす丸い円筒の道具を指す言葉なのだが、よく見るとエルツ山地の人形に似ている。つまりそれが子供には人の形に見えたのが、ドッケの起源である。しかしその後この語は玩具全般を指すようになって、玩具職人のことをドッケン作り(Dockenmacher)という。時とともにこの職人は他の錫や装身具の職人たちから離れて独立し、それがまた幾つかの部門に分かれるようになった。1.まず木から切り出して大体の形に彫る2.その身体を亜麻、羊毛等に包む3.紙、その他の材料で柄付けとか着色を行う職人。非常に様々なものが作られたらしい。騎士、貴婦人、召使い、下女、とか家畜。揺り木馬はドイツでは珍しくない玩具だが、17世紀には木に皮を被せるのが通常だったようだ。ちなみにこれが後に自転車に発展したのだといわれる。
 17世紀には30年戦争で当市の玩具製造業は壊滅的な打撃を受けた。そしてエルツ山地やベルヒテスガーデン、チューリンゲン等の輸入製品がこれに取って代わる機縁となった。ただ錫産業だけは後に回復して、19世紀のブリキ製品の興隆につながって行く。鉄道模型や時計産業は今も盛んである。
 前回に挙げた構成要素のピラミッドや胡桃割人形、パイプマンは無論見本市の主たる展示品である。(6)のプラム小人(Zwetschgenmannlein)については言い伝えがあり、市門の塔に住む独り者の針金細工師が、針金作りでやっとパンとスープを手に入れることが出来るだけで、とてもワインを買う余裕はなかった。そこで門のそばの掘に咲くプラムを採って自分で醸造し、残ったプラムは屋根裏に干しておいた。ある日、彼は病気になり、死にかけていた。丁度アトヴェントだった。そこへ近所の子供たちの歌声が聞こえてきた。これを聞いた彼は非常に嬉しくなり、病気が直ってしまった。そこで感謝の印として作ったのがこの干しプラムと胡桃を材料にして作った人形である。ちなみに、ドイツで採れる果物はリンゴ等種類は少ないのだが、プラムはその中の一つで、リンゴほどではないが、よく畠や町家の庭に植えられている。日本の柿ぐらいに当たるだろうか。
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