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ドイツ我楽多市
第17回 「仕掛け時計」  文:Prof. ツヴェルク
 
  いつだったか喫茶店に入ったら、その瞬間に午後3時になったらしく、壁掛け時計から3体の金属の人形が飛び出してきて、一斉にラッパを吹いたのに面食らったことがあった。最近は日本でもこの種の仕掛け時計、いわゆる鳩時計が珍しくなくなっている。ヨーロッパでは鳩時計というと、昔からドイツ南西部の黒森(シュヴァルツヴァルト)が有名である。この一帯は北から南へかけて160キロの長さに、東西は北部では25キロの、南部では60キロの幅に亘ってモミやトウヒの針葉樹が密生し、空から見ると黒く見えるのでそういう名前がついている。もっともかなり前から酸性雨のために枯れる木が増大する状況が続いて、悩みの種となっている。

 この地域は谷が深く、豪雪地帯なので、冬には家にこもって時計を作るより他なかったという。ドイツ語ではkuckuckshur、つまりカッコウ時計と言われているのに、何故か鳩が飛び出す。あれは本当は鳩ではなくて、カッコウなのかも知れない。百科事典で調べてみたら、カッコウの声で時を知らせる時計と書いてあった。これでは答えにならない。今は社会人になっている息子が幼稚園児の頃、土産に買って帰ったら、初めは喜んで、鳩が何時飛び出して来るか、とじっと待ち構えていたが、そのうちに段々と30分毎にポーポーと鳴くのがうるさいと言いだしたのはおかしかった。実はその後母親の方も同じ理由で、夜は止めて寝たりしていたから、それを知らずに朝見ると時間が狂っていて、何のための時計か判らない始末だった。カッコウは、卵を他のホオジロ等の鳥の巣に置いて育てさせる習性があるから、ドイツ語の「カッコウの卵」と言う単語には迷惑な贈り物という意味がある。この土産も結果的にそうなったわけだ。それだけ嫌われても、この時計は今でも感心に鳴いている。さすがにただ時間と鳴く回数とが一致しなくなったが。
 黒森で時計を作るようになったのは、ボヘミヤのガラス細工の行商人(ボヘミヤガラスはすでに有名だった)が1640年頃、機械仕掛けの時計(つまり日時計とか砂時計などではなく)を持ってきたのがきっかけだと言われている。細かい細工の好きな男がいて、冬の農閑期にそれをバラバラに分解し、構造が解ると、今度はそれを真似て木製の歯車でそっくり作り上げたのが始まりだそうである。黒森のやや南部のほぼ中心部にザンクト・ペーターという修道院があって、その管轄地域に1660年にはもう時計製作場が設けられていたというから、当時としてはかなり早く普及したわけである。とはいえ鳩時計のような複雑な時計はもう少し後から作られるようになったのであって、最初は普通の文字盤のついたものだった。この文字盤の色付けは長い間、農民の家族の内職によっていたらしい。
 そして時とともに鐘をつけたり、チャイムや笛、鳩ををつけるようになっていった。一昨年、長崎県のハウステンボスを訪ねたら、1730年頃のカリヨン時計が展示されていたが、同じ頃黒森でもカリヨン時計が作られていたらしい。またストリート・オルガンは1903年にオランダで作られたとの解説があったが、これもやはり同じ頃、黒森でも村祭りと娯楽施設のために作られていたとか。

画像:我が家の仕掛け時計

 先の修道院から約20キロ東にフルトヴァンゲンという町があって、上記の最初の木製の歯車時計が展示されている時計博物館があるが、この町とここからどちらも5,6キロの範囲内のトリベルクとノイシュタットという町が時計製作の中心地だった。この一帯では1800年にほぼ9000人の人口のうち、約一割に当たる800人が時計製作業に従事していたという記録がある。そして最初は職人自身が籠に入れて原価の4倍から5倍の値段で売って歩いたという。残念ながら筆者は実物は見ていないのだが、やはりこの近くのショーナーハという町に世界最大の鳩時計があって、案内書の写真で見る限り、普通の家が、息子に買ってやった鳩時計とそっくり同じ形をして立っている。そしてその前に、山の強力が背負うような木の台に鳩時計を積み上げた男が立っている。普通の家と言ったが、この辺りの農家の屋根は、日本の平家村の合掌作りのように勾配がきつく、上階が下階よりも外に突き出している独特の構造である。それが鳩時計にも取り入れられも輸出を始めたので、1850年にフルトヴァンゲンに時計職人の学校を創立して、マイスターの養成に努めることとなったという。

 しかし観光客の目を惹く仕掛け時計は、その雄大さからして、やはり市庁舎の塔などに設置された等身大の人形の活躍する大時計であろう。これにはミュンヘンやニュールンベルクもよく知られているが、ここではその設置のいわくからして興味深いローテンブルクを挙げておこう。この町はロマンチック街道沿線で最も有名な中世都市で、周辺がぐるりと城壁に囲まれていて、その中心部に朝市の立つ広場があり、回りを市役所やら教会やらが囲んでいる。その建物の一つに市の宴会堂があって、そこに昼の12時になると二つの窓がパタンと開き、一方の窓には中世の服装をした男の姿が現れて、大ジョッキから少しずつワインを飲む。飲み干すと、またパタンと窓が閉まる仕掛けである。
 17世紀の30年戦争の時、この町は新教派の陣営、つまり反皇帝派だったので、1631年、激しい抵抗の後、ティリー将軍の率いる皇帝軍に占領され、市長と市参事会員たちの首をはねると宣告される。しかし市長の姪のペッツオルトが慈悲を乞うた時、たまたま振る舞われたワインが美味かったので、将軍は、誰かそこの3リットル」入りの大ジョッキにワインを満たして一気に飲み干したら考え直してもよい、と言った。それを受けて老市長のヌッシュが見事に飲み干して見せたという。それを記念して1910年に作られた仕掛け時計だから、飲んで見せるのはもちろんマイスター・トルンク(大酒飲み)のヌッシュで、反対側の窓でそれを見つめるのはティリー将軍である。
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